こんにちは、夕張市議会議員 今川和哉です。3月23日で31歳になりました。
お祝いいただいた方、ありがとうございます。皆様いつもありがとうございます。
昨年のように、30代に突入したというような区切り感は特にありませんが、
なんとなく人生の半分くらいの時期から半生を見返してみようと思います。反省です。
15~17歳、札幌市内の高校に通っていました。
成績はそれほど良くも悪くもありませんでしたね。
高校3年の後期、特に何も進路は考えていなかったので、センター試験の出願すらしていませんでした。卒業間近の12月あたりで「よく考えたら何も進路なく卒業するのはまずいな」と思い大学へ行くことにし、受験勉強を始めました。
一人暮らしをするお金は到底なかったため、実家から通える札幌市内の大学という条件、かつセンター試験が必要のない私大という選択肢の中で、結局北海学園大学の法学部へ進学しました。学費はほぼ全額奨学金で借りました。成績は良くないので利息が付く2種奨学金です。未だに返済しています。
18歳 運送会社でアルバイトをしつつ真面目に大学に通っていました。
在学中はこれといって面白いエピソードは有りません…図書館と学食に居ました。
19歳 大学2年生、宅地建物取引士(当時取引主任者)の資格を取得しました。法学部だったので、法律系の試験を受けようかな~という気持ちでしたが、今では不動産会社をやることになり、この時には思いもよらずに有効活用できています。
20歳 大学3年生、司法書士の試験に合格しました。これまで人生で試験に本気で向き合ってきたことがなかったので、自分のできるレベルがどの程度のものなのかよくわからず、宅建を合格したときもまだ難しくても全然できそうだなと思い、難しいと言われる試験を受けてみようと思ったこと、将来的に普通の社会人にあまり向いている性格ではないことが自覚されてきたこと、などから司法書士を受けることにしたのだったと思います。よく覚えてはいません。この年度の最年少合格者でした。行政書士の試験もこのあと合格しました。
21歳 大学4年生、すでに卒業単位は取得していたため、法科大学院の試験勉強をしていました。
大学院適性試験(法科のセンター試験的なものです)までは受けましたが、結局、これ以上進学をすると実家にも生活の余裕がないこと、奨学金のうえに奨学金を受けても他に生活費を稼ぐ必要があり進学は相当厳しいという判断から、大学院の進学は断念しました。適性試験が上位1割だったので、今でも少し悔しい思いはあります。
大学4年生後半は、在学時から札幌の司法書士事務所で働き始めました。司法書士登録のとき、大学生は不許可事由じゃないか?と言われたのに対して、法令に規定がないのに拒否する権限がありますか?法律には「司法書士の信用又は品位を害するおそれがあるときその他司法書士の職責に照らし司法書士としての適格性を欠くとき」としか書いてませんが、大学生であることは品位を害するのですか???みたいなやり取りをしたり、「職務専念義務に抵触する」と言われたので単位証明書を登録申請書に添付したり、色々とありましたが登録はできました。
札幌の司法書士事務所では、債務整理や裁判業務、登記の電子申請を担当していました。
1年ほど勤務して独立しました。私には勤め人が全く向いていないことを完全に理解しました。
どこで事務所を開業しようかなと考えたとき、業務も多く人脈や実家のある札幌が通常の流れだったでしょう。
勤務していたときに、ルーティンワークがあまり好きではないこと、変わった難しい仕事のほうが好きなことがわかっていたので、都会で件数をこなすタイプの事務所になるのは。稼げたとしても何か違うなぁと考えていたときに、たまたま「夕張市は25年司法書士がいない」ということを聞きました。
札幌からも近いし、家庭裁判所もある地域なのに司法書士も弁護士もいないのか、と興味を持ち、それなら既存の司法書士の枠にとらわれない新しい業務スタイルを作ることができるんじゃないかな、と考え泊りがけで調査に行きました。
難しいよ、商売にはならないよと言う人も多かったのですが、「交通手段がないお年寄りほど相談先がない」「悪質商法の業者は都市部からこっちに来る」
といった話を聞いて、それは札幌の誰かが何とかしなければならないのでは…と思い、ここで第一の「誰かがやらなきゃならないならやってみようか」が発動したわけです。
不動産会社がなかったので、事務所を探すにも家を探すにも非常に苦労しましたが、22歳のときに夕張市で事務所を開業します。
23歳、夕張市に来たときに不動産会社がなく家も探せなかったことがずっと気になっており、たまたま辞退者の出た市営住宅に入ることができたけれど、もしそのタイミングがあわなかったら栗山か札幌から通っていたわけで、それでよかったのだろうか、誰かが不動産会社をやってくれればなぁ。と思っていたわけです。
誰かが…というか自分が大学生のときに持っていた宅建の資格があるな、ということで夕張開発株式会社を立ち上げ、宅建業の登録をしました。
司法書士にも全く売上のない時期で登録のお金もなかったため、上田博和さん(日本政策学校理事長)、株式会社丸十わたなべの渡辺泰弘社長、お隣のマチ栗山の国耕産業有限会社の土井猛社長、当時栗山青年会議所の理事長だった北野数馬先輩にもご支援いただき、宅建業の登録ができたものです。
今でもあまり売上のある会社ではありませんが…全く住居に関する相談先がなかった10年前に比べると、一定程度移住や転勤者への物件紹介などで夕張市の地域インフラ的役割として貢献ができているのかなと自負するところです。私は何度も辞めようと思っていたところ妻がかなり無理をして業務をやっているため何とか継続できているもので、もう少し収益面も今後は考えていかなければと思っています。
25歳のとき、来年の夕張市議会議員選挙に出よう!と決めました。
この理由については、【小学生と市議会の意見交換会 の記事でも書きました】
>引用
まちの人口が減るということは、当然仕事が減るということにつながりました。
現在もかもしれませんが、「人口が減るのは仕方がない」という諦めがまち全体にあったわけです。それは「事業がこのまちで成り立たないのは仕方がない」と言われているのと同じような気持ちでした。誰かがなんとかしてくれるのを待っている、という性格でもないので、自分がやれることはやろうじゃないかという思いで市議会議員選挙に出たわけです。
といった説明をしました。そのほかにも色々なことはあったわけですが。例えば、自分が移住するときに不動産を探すのに困ったことから不動産会社を立ち上げましたが、市営住宅や空き家の多いこの地域では政策的な解決方法も考えなければ焼け石に水だろうと思ったことや、市政にもっと事業者的視点を入れ、再生団体を抜けたあとのことを考えなければ将来の世代までまちが残らないだろうと感じていたことなど、様々な事情がありました。
そういういきさつがあり、26歳から現在まで夕張市議会議員をやっております。
昨年、30歳のとき2度目の選挙があり、なんとか再度2期目をやらせていただいています。
娘も生まれ、今年で2歳になります。
◆今後どう生きようかな
司法書士はずっと続けられるといいなぁと思っています。自分が社会に貢献できるスキルの大部分を占めるものなので、勉強も欠かしていません。
議員を2期以降も続けるかは、中々難しいところだと思います。報酬の面では辞めたいと思ったり割に合わないと思うことは意外にも全くないのですが、やはり議会の仕事を優先して司法書士の業務に支障が出たり、不動産の入居者の希望を叶えるか、この議案を読み込むか、といった選択をしなければならないとき、兼業はやはり難しいなと感じます。
◆目標はあるかな
1.政党を作りたいですね
いや、自分が議員にならなくてもいいんですけど、既存政党の限界というか当選のために利益団体や支持母体に縛られる古い政党組織では、政権交代しようが誰が出ようが根本的に今後の日本を変えることはできないんじゃないだろうかと常に感じているためです。
2.ラーメン屋をやりたい
食べるのは当然好きですが、自分でもラーメンを作るために冷凍庫には1キロのラードを入れています。
高校の近くとかで学生ラーメンを提供する店を開きたいですね。パスタ屋も捨てがたい、得意なので
3.大学に通いなおしたい
法科大学院もそうですが、不動産をやっていると建築についての知識も欲しいなぁと思いますし、公共政策を根本から勉強してみたいという思いはあります。
法科大学院か建築都市工学部か公共政策大学院に行ってみたい。もし大金があれば…の話ですが
ほかにもカプセルホテルを建てたい、コンカフェを運営したい、歌唱グループをプロデュースしたいとか色々あるような気がします。お金次第の夢…
あまり自分のことを書くことがないのですが、読んでいただいた方がいればありがとうございました。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
夕張市議会議員 今川和哉
